2013年3月10日日曜日

観察文

観察文に関してはなんかこう、なんとも言えないですねえ

観察文と言うだけのことはあり、「観察」がキーワードなのは確かです。
テキストによって、なぜか2つの「観察」があります。

①聞き手に観察することを促す
②話し手が観察している(目前にしている)ことを言う

lo klama cu bajra = 車が走る を例に見てみます。

 観察文は1位のsumtiを省略することにより作ります。

 これはなぜかと言いますと、1位のsumtiは主格のようなものであり、sumtiの中でも特に重要なものであるからです。これを省略する、いや、「環境に投げ出す」ことで、bridiはその意味を維持します。つまり、観察文を聞いた人は、「環境から1位なるsumtiを探す」ことになるわけです。環境を探す、これが「観察」です。なので、観察文は聞き手に観察を促す(①)わけです。
 なので bajra は「(ほら、見て)走ってる」と言った意味合いを持つわけです。

 もうひとつの立場として、1位のsumtiが書かれていないとき、そこにはzo'eが意図されています。
zo'eとは、話者がそのsumtiについて、あまり重要でない/明らかなものとして感じているものです。
主観的明白性の根拠として一番強いものはやはり、「今そこにある」ということです。「そこにあるのだからわざわざ言う必要はない」という論理です。故に観察文は話し手が観察している際に発生しうる(②)わけです。

 さて、この2つの観察は結局のところどちらも起こらざるを得ないように思われます。
 ①として使う場合、「相手に見て欲しい」ためにbridiの1位をzo'e(明らかだよ)に変えます。
結果、「私が見て明らかなもの」が1位となり、②な観察も出てきます。①の観察を目的にし、②の観察をその手段としたわけです。
 ②として使う場合、「私が見て明らかなもの」が1位であるのでzo'eが使われるわけですが、この明白性はあくまで主観的なものなのです。聞き手は何のことか分からないわけです。その結果、環境探索に乗り出さねばなりません。②の観察を原因として、①の観察が結果として現れるわけです。

 このように、観察文が使われる際は必ず①②両方の観察が行われます。

 自然言語ではこの観察文のようなものは、主に名詞のみを発することで行われます。
 「どろぼう!」と隣を歩いていた友人が叫んだとき、あなたは「泥棒なんてくそくらえだ」なんていう泥棒の話をいきなりしだしたとは思わないはずです。むしろ、「見ろよ泥棒だ」というメッセージを受け取るはずです。これは①の観察文ですね。
 「車!」と傍にいた小さな子が叫んだとき、その母親は「あの車は高くて買えないよ」なんて言わないわけで、結局その子は単に「車(が私には見える)」ということを主張したにすぎません。なので、「そうだね、車だね」くらいの返答しかしないはずです。その子は別に車について議論したいわけでなく、単にそこに車があったことについて述べたかっただけだからです。これは②の観察文です。

 ここで、自然言語とロジバンを対比したとき、自然言語は「名詞/項」を、ロジバンは「selbri/述語」を観察文の語として使うという、少しの違和感にとりつかれます。
 これに関していえば、この問いを考えることで解決できるかもしれません:

自然言語の観察文は、本当に純粋な「名詞」を発しているものなのだろうか。

 ロジバンでは「karce」と言えば、「車のようなもの」というような述語的名詞な発言になります。自然言語でも、名詞を使ってそれが行われているのではないでしょうか。さっきの子の叫んだ「車!」というのは「車!」でなく「車(のようなもの)!」なのではないかということです。
 前述のとおり、観察文は主観的明白性を以て発されます。この主観性がポイントで、あくまでその叫んだ語は「話者にとってのみ明白」なのであって、実をいうと「それが実際にそうなのか」は議論されていないわけです。
 「どろぼう!」と叫んだ友人は単なる早とちりで、急いで取引をし終えて走っていたサラリーマンが、すれ違いの買い物帰りのおばさんとぶつかり、卵を割ったが構わず走り、それをおばさんが咎めようとしていた光景、なのかもしれません。
 こういったことから、自然言語で使われる観察文の「名」は、そういった意味で述語的であると考えられるわけです。


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